ただ走るのってそんなに楽しいかな?






Amazonで42件のレビューで平均4.5点という評価の本。
それだけランニングに興味のある人が多くて、しかもこの本がおもしろいということなのか。
表紙の裏に「読むと走りたくなる」って書いてあるけど、本当かな?


まずは内容を訳者あとがきから引用してみる。



「この本は三つの物語をひとつに融合させたものだ。ひとつは、足を痛めた冴えないランナーである著者がメキシコの銅峡谷(バランカス・デル・コブレ)でカバーヨ・ブランコと呼ばれる幽霊を見つけ出し、史上最強の”走る民族”タラウマラ族の秘術を探る話。もうひとつは、多くのランニングシューズが人間の足に悪影響をおよぼしていることや、人間の身体がもともと走るようにできていることを、バイオメカニクスや人類学などの科学的な説明をまじえて解き明かす話。そして見つめは、タラウマラ族と世界最速のウルトラランナー、スコット・ジュレクをはじめとする七人のアメリカ人がメキシコの高野で激突するレースの話だ。」(P412)



先の物語は上記の3つの疑問を解き明かす内容にそって書かれている。
1.タラウマラ族はなぜ走っても故障しないのか?
2.人間はなぜ(なんのために)「走る」のか?
3.タラウラマ族はなぜ長い距離を走れるのか?




1.タラウマラ族はなぜ走っても故障しないのか?


「『タラウマラ族は偉大なランナーじゃない。(中略)彼らは偉大なアスリートだ。このふたつはぜんぜんちがう』ランナーは組み立てラインの工場労働者で、ひとつのこと---一定のスピードでまっすぐ進むこと---には長け、酷使されて機械が故障するまでその動きをくりかえす。アスリートはターザンのようなものだ。ターザンは泳ぎ、格闘し、ジャンプし、つるにぶら下がる。強靭で爆発的だ。ターザンがつぎに何をするかは予想がつかず、だからこそ彼はけがをしない。」(P303)


ターザンがつぎに何をするか予想がつかないのは、彼の生活圏ではつぎに何が「起こるか」わからないからだ。
だからこそ、何が起こっても対応できるように、全身が強化されている。
ケガばかりしていた時期の著者のように、都会の整備された舗装道路を高価なシューズを履いて走り回っていると、使う身体の部位は自ずと限定的になり、それ以外の部位を使った瞬間、故障する。
全身の強化はトレーニングだけでなく、食事、シューズも含めて。
特にシューズについての記述は興味深い!
大手シューズメーカーが調査し続けた結果、たどり着いた故障しないためのシューズの条件とは・・・



2.人間はなぜ(なんのために)「走る」のか?


古代、氷河期を経て世界の気候が温暖となり、峡谷が狭まり、森が消え、草原が増えると、狩りは獲物を「待ち伏せ」するのではなく「追いかける」ものになった。
そこで必要なのは、それまで繁栄していたネアンダルタール人の筋骨たくましく寒さに強い屈強な肉体でなく、獲物が走り疲れて倒れるまで追い続けるホモ・サピエンスの「持久力」だった!
暑い夏、犬の散歩に出たとする。
しばらくジョギングをしながら散歩を続けると、人間よりも犬の方が先に走れなくなる。
これは、彼らに発汗という体温を下げる機能がなく、短時間のスピードはあっても長時間走り続けると体温が上がり続けてしまい、結果として体機能不全となってしまうから。
だからだだっ広い原っぱで獲物を捕えるために---生きるために---「走る」力を身に付けたのだ。


「食べる」ことは、飢餓によるストレスから逃れられる。
アメリカで起きた現代のランニングブームは3度あり、それは
1.大恐慌時代
2.ベトナム戦争、冷戦、人種暴動、大統領の犯罪、敬愛された三人の指導者の暗殺、
3.9月11日のテロ攻撃の一年後

だ。
ストレスを解消するために走り、またその走りから来る快感が人を走らせる。
「走ることはわれわれの根本的なふたつの衝動、恐れと喜びを結びつけるのだ。われわれは怖くなると走り、有頂天になると走り、自分の抱える問題から走って逃げ、楽しい時間を求めて走りまわる。」(P18)
まさに、古代の欲求が今でもホモ・サピエンスに受け継がれているのである。



3タラウラマ族はなぜ長い距離を走れるのか?


草原で獲物を追い求めたホモ・サピエンスだが、当然彼らにも捕食者がおり、また獲物にも別の捕食者がいた。
そして獲物もまた進化して、簡単に追いかけられないように群れを伴って行動するようになった。
獲物は群れのなかに混じったり、分散したりしながら休み休み逃げ続ける。
彼らは獲物が疲れるまで追いかけ続けなければ、スピードの違いで捕らえられないのだから。
そして、追いかけるのに夢中になりすぎて体力を失い走れなくなれば、彼ら自身がライオンやヒョウといった捕食者たちの餌食となるのだ。
逃げる体力を残しつつ、獲物を効率的に追わなければならない。
彼らは次第に複数人で、獲物が単独で走り続けるよう、追い込むがごとく追いかけるようになった。
そして複数人で追いかける以上、彼らも群れを形成するようになった。
当然、女性や子どももいる。
獲物を求めて移動して行くからには、当たり前のように女性や子どもも走らなければならない。
じっとして待っていれば、それこそ捕食者の格好の「獲物」になってしまう。
捕食者から逃げるために、そして獲物を追いかけ続けるために、彼らは長時間走り続ける必要があった。


「タラウマラ族にとて、それは日常にすぎない。タラウマラ族は洞窟を離れるたび、未知の世界に足を踏み入れることになる。うさぎを追ってどれだけ速く走る羽目になるか、薪をどれだけもち帰ればならないか、吹雪のなかの登りがどれだけ厄介になるか、まったくわからないからだ。子供のころに直面する最初の何題は、崖の縁で生き延びることであり、最初にして生涯にわたる遊び、あの球戯は、不確実性の訓練にほかならない。木のボールを岩の山の向こうに運ぶには、突進し、ゆるやかに駆け、減速し、全力で走り、溝に飛び込み、跳び出ていく態勢をいつでもつくっておく必要がある。」(P304)


生き残るために、「走る」のだ、と。



この本におけるタウラマラ族の位置づけとは、いわゆる現代の都会に暮らす人々に対するカウンターパートだ。
都会の整備された舗装道路を高価なシューズを履いて走り回るも、たった数キロでケガをしてしまう人々と対比されている。
つまりその人々の代表として本に出てくるのが著者であり、そこから抜け出してタラウマラ族の方法を取り入れようと近づいたのがカバーヨ・ブランコであり、むしろ自らの力だけでタラウマラ族へのアプローチへ重なっていったのがスコット・ジュレクである。
カバーヨ・ブランコやスコット・ジュレクがどうして走り続けるのか、タラウマラ族への憧憬を持ってやまないのか、そして著者も含めて、カバーヨ、スコットらがタラウマラ族と臨むレースのドキュメンタリーである最終章は、ここまで読んできた人なら一気に読んでしまうほどの高揚感だ。


ところで、走り続けた結果、何度も足を痛めた著者はこの分野で権威ある医者に
「どうして私の足は痛むのか?(ハウ・カム・マイ・フット・ハーツ?)」(P12)
と訊いた。対して医者は
「人間の身体はそのような酷使に耐えられるようにはできていない。」「とくにあなたの体は」(P14)
と答えている。
最後まで読んだあと、この部分について「そういう医者でもわからない(知らない)ことなのか」と思ったけれど、実は「あなたの体のままじゃ、走れません(獲物を捕らえられませんよ)」という意味だったら、最初から答えは出てたよね!的でおもしろいなと思ってしまった(笑)。



現代人の病気の大半は走る必要がなくなったことから生まれている。
「宇宙飛行士は地球に帰還したとき、数日間で何十歳ぶんも老化していたのだ。骨は弱くなり、筋肉は萎縮した。(中略)身体が果たすべき仕事を奪い、その代償を払っている。西洋における主な死因---心臓病、脳卒中、糖尿病、鬱病、高血圧症、十数種類の癌---のほとんどを、われわれの祖先は知らなかった。」(P349)
果たして、その病気を治す特効薬とは・・・
「脚を動かせばいい。走るために生まれたと思わないとしたら、あなたは歴史を否定しているだけではすまない。あなたという人間を否定しているのです」(P350)




一人でできることは限られていると知っているかどうか。





サッカー日本代表、遠藤保仁選手の著書。
サッカー選手が自分で書いてこんなにすらすら書けるとは思えない(失礼!)ので、インタビューの再構成なんじゃないかと思うけど、まあそれは些細なこと。
なかなか興味深いことも書かれていて、インタビューならよく引き出したと思う。
というわけで感想。



構成は4章に分かれていて、1.南アフリカワールドカップについて、2.過去の代表について、3.日本のサッカーについて、4.現在の代表について、となっている。
で、1と2と4はエピソードが大半で、リアルタイムで見ていた側から見れば読み物としては面白いんだけど、あんまり考えさせられるような話はない。
家族に対する考え方や接し方、アスリートとしてケガ対策をどうしているか、が少しなるほどと思うくらい。
もちろん試合中の裏話なんかは、サッカーファンとしては面白いんだけど。



ということで、感じるところが多かったのは3なんだけど、その前に1と2と4でもピンときたところをいくつか。



P28 「これぐらいの時期に、選手はけっこう怪我をする。ワールドカップ・イヤーなだけに、つい無理をしてしまうのだ」

怪我をしやすいのが、大きな試合の前に多いという捉え方かと。
大きな仕事に取り組んでいるときでも、ずっとその仕事にとりかかれるわけじゃないから、ほかの仕事をしながらになる。
だからその大きな仕事を中心に向き合っている時はいいけど、ほかの仕事でトラブルが起きたりして、ちょっと目を離すと、チェックが粗くなって最終的にミスにつながることがある。
あと、連休明けや夏休み明けはなかなか仕事モードに切り替わらなくて、やっぱりチェックが粗くなる。
そういや現代表監督のザッケローニも代表のWEBサイトのコラムで「試合勘を失っている」ということについて、「試合に出ていない、というのは技術やコンビネーションなどの面(いわゆるテクニックだろうか)では心配していない。むしろ怪我をしたあとに、ケガの前と同じようなパフォーマンスができるかどうか、また1試合を通してそのパフォーマンスが発揮できるかどうか(おそらくフィジカルのことだと思われる)をチェックする、というようなことを言っていた気がする。
人は張り切ったり油断したりすると、ミスをしやすいってことなんだよね。
一言で言うと当たり前のことなんだけどねえ。



P86 「ザースフェーは標高1800メートルのところにあるんだけど、ここの合宿は本当に苦しかった。最初は、激しく動けば息切れがするし、軽い頭痛もあった。選手の中には、オカのようになかなか順応できず、体調自体、壊してしまう選手もいた。とにかく通常よりエネルギーの消費が速く、キツかった。」

自分もバスケットボールをプレーしていて思うのは、いくらテクニックがあってもコンディションができてないとそのテクニックを発揮できないことが非常に多いということ。
いつも普通にできるプレーがなぜかうまくいかなかったり、判断ミスなんかも鼻がつまって呼吸しずらいとか、ちょっと睡眠不足だとかいう「ほんのちょっと」のことが意外と影響しているように思う。
遠藤選手のようなトップアスリートにとって、少しのコンディションの差がプレーの質にどれだけ影響するのかは、ちょと想像つかないけど、少なくとも自分で感じる限りは体調がいいほうが「いつもできてることがきちんとできる」状態になりやすいかなと。
この引用部の後に高地トレーニングの内容とその効果が少しずつ書かれているのだけど、科学的に専門家の下でトレーニングしたことでいいコンディションを確保できた、とあり、高地での対戦だったカメルーン、デンマークに勝利したのはそういった対策が実を結んだとも言えるのかもしれない。
まあ結果論と言われればそうなんだろうけど。



P125 「ここ5、6年、目新しいことはほとんどやってこなかったし、そういう機会もなかったから。まわりにも、教えてくれる人はいなかった。この時間をもうちょっと真剣に取り組んでいたら『もっと成長できたのに』と思った。」

ある程度その物事に成熟してくると、大きいことや派手なことも、実際は小さいことや細かいことの積み重ねなのが見えてきて、ひたすらそういう方向で磨きをかけることが多くなるとは思う。
たとえばバスケットボールで言うと、ディフェンスのキモは読みだ、なんて話があるのだけど。
それは確かに相手が動いてからこっちが動いたのでは、どうしても後手に回ってしまうから、相手のプレーに追いつくためにも「先を読む」ということが大事、というのはわかる。
だけど、いくら相手の動きを読んだからって付いていけるかどうかは別問題。
毎日毎日地味なフットワークを鍛える練習をしているからこそ、相手の動きを読んだ際にきっちり追いつける。
ダンクシュートも実は難しい。
背が高くてジャンプ力があれば素人でも出来るだろ、と思われがちなのだが、その場でジャンプするならともかくランニングしながらだと、ジャンプしながらボールを持ち上げてゴールに叩き込む動作には、ゴールの位置にきっちり合わせてジャンプするスキルと、ボールを正確にゴールの位置に叩き込むスキルが必要で、動きながらいろんなことをいっぺんにしなくちゃならない。
これは普段から普通のランニングシュートの練習を何十回としていないと、ボールを叩き込む位置がズレてリングに当たってしまったり、ジャンプのタイミングが合わずゴールに届かなかったりする。
ちょっとたとえが長くなったけど、派手なプレーの裏には基礎の積み重ねが必ずあるということを一流ほど知っているので、熟練するほど基礎練習の時間が長くなったりするわけで、そうなるとやっぱり新しいことをわざわざ取り入れようって気にはならないのかな、と。
ただ、実際は歳をとるとプレーの正確性も変わってくるし、スピードも失われてくるから、失った分新しいものを身につけないと生き残れないという意味で、リスクを背負ってでも新しいことにチャレンジしないとしないことが逆にリスクになってしまうということがある。



ここまでが1,2,4。
次にもっともいろいろ感じるところの多かった3。



P128 「いろんな準備をしてきて、相当の努力をして、試合で全力を出し切って、なおかつ運も引き入れて、やっと勝利をすることができる感じだった。」

なおかつ運も引き入れて、というところがふむ。
「強いから勝つのではなく、勝った者が強いのだ」ということだよね。
もちろん、できることは全部やった、という前提ではあるけど。
これに気づいてると勝負の「流れ」っていうのが見えてくるような気がする。
だから勝ってる試合でも流れが悪くなりそうなら違うことをやってみるし、負けてる試合でもこの流れで行けば逆転できる「流れ」ならそのままずっと続ける、ような。
多少の力の差があったとしても勝負は「時の運」ということをわかっていると、「流れ」は「運」が握っていると認識していて、変えようとしてうまくいくこともいかないこともあって、それは実力よりも運の影響するところだとわかっているから、そういう行動をとる。



P133 「現役生活が短いから、稼げる時間は野球選手ほど長くない。(改行)だから中途半端にサッカーをするのではなく、『すべてを捧げるぐらいの覚悟でサッカーするべきでしょ』と、そう言いたい。」

現役生活が短い、というのはサッカー選手にとって人生における最大のリスクだろうね。
それを踏まえて、稼げる時間に人生の大半を注ぎ込むというのは妥当な考えでもある。
けど、本人は3人も子どもがいて、意外と子煩悩らしい。
まあ、何を大切にするかは個人の自由だし、そういった部分も人生なのだから、こう言われても結局人それぞれでいい。
ただ覚悟は確かに大事だと思う。
自分がどういう人生を進むかを決めるのは、考えや行動ではなく覚悟なんじゃないかな。



P135 「今の若い選手は『自分はこうなんです』、『こうしたいんです』というのをあまり言わないし、自分に何が求められているのかも聞きにいかない。」

なんとなく気持ちはわかるなあ。
やっぱり「空気読めよ」の世代なのかなあ。
あんまり自分がやたら目立つようなことをしない、というか。
「自分に何が求められているか」というのは「与えられたものをやっておく」のほうが優先順位が高いからかと。
飽食の時代って感じのような。
でも「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」だしなあ。



P146 「面白かったのは、意識の高い選手とそうでない選手がハッキリ見えるようになったということだ。例えば、右サイドから左サイドにボールを運ぶとする。相手を誘うためにゆっくり出すという意図があるならいい。でも何も考えていない選手は、ただゆっくり回すだけで打開しようとする意識を持っていない。単に、回すことに満足しているのだ。」

行動に必ず意図をもたせる、というのは非常に重要なことだと思う。
なぜその行動をとったのか?を突き詰めないと、行動のスピードや精度が上がらない。
営業マンでも他部署や顧客を説得するとして、話す内容やそのタイミングに意図をこめていないと、話に力がない。
だから話に説得力がなくて、相手を動かせない。
「なぜ今、その内容の話をどうして私にしてくるのか?」というのがなく、なんとなく話している人ほど、訪問先の選択もなんとなくだし、数字の積み上げもなんとなくとしか捉えられないから、なぜ数字が上がらないのかもなんとなくでしか読み取れないから、曖昧な説明しかできない。
できる人は電話一本でも意図をこめる。
パス一本でもと同じことだと思う。



P172 「クールに黙々とプレーするだけが『格好いい』とは、まったく思わない。表現することは、サッカーではコミュニケーションを取ることと同じだ」

とあるんですけど、この部分はちょっと違和感。
というのも第二章でフィリップ・トルシエが代表監督時代のエピソードで
「とにかく『ファイトしろ』『闘志を見せろ』が口癖で、その姿勢を見せることを選手に要求した。(中略)俺はそういうのが一番苦手だった。(中略)とりあえず戦うポーズさえ見せれば高く評価されるというのは、どうにも納得がいかなかった」
とあって、正確なニュアンスはちょっとわからないから、本当はそうじゃないのかもしれないけど、そういうやる気を見せるのもコミュニケーションじゃないの?というツッコミが・・・。
いくらなんでも代表に下手だけどやる気ある選手を入れる、というのはトルシエの「結果を出さなければいけない」立場からして考えにくい行動かと。
ということなら、ある程度実力がある(と判断した)選手を集めて、その中からやる気のある選手を選別するのは(良い悪いは別として)それほど不自然なやり方でもない。
この第二章がいまひとつなのは、結局岡田さんとオシムの評価を高くして、トルシエとジーコの評価を低くしたのは、自分を使うか使わなかったかから来る好き嫌いじゃないの?戦術や監督としての質を評価したんじゃないんじゃいないの?と思わせるところが理由かなと。
「当時の俺は、まだ若かったせいで~」というくだりもあるので、まあそこらへんは年齢と共に変わったのかな、という気もするんだけどね。




以上でございます。

読んだ時期がちょうどアジアカップで優勝した頃だったので、なかなかタイムリーでした。

出ている選手の中では最年長らしいのですが、それを感じさせない走力と大黒柱感がありました。

特にパスの精密さは、ほかの選手と比べると素人でもわかるくらいに圧倒的な違いがあると思います。

ブラジルでも観たいところですが、どうでしょうかね~。

34歳ですから・・・。

もちろん20年代表を務めた元ドイツ代表のマテウスや、38歳にして未だイタリア代表のファビオ・カンナバーロの例もあるんですけどね。




ちょろちょろ書いてたせいでアップが大晦日とは…

今年もしょうもないことばかり書いていたしょうもないブログですが、読んでいただけた方には大変感謝したいです。


来年もよろしくです。


春があれば秋もあるのが日本という国ですね。

使い古されてゴミ箱どころか、収集車で持っていってしまわれてるんじゃないか、という言葉に「スポーツの秋」とかいうのがありますが、それに則って春の大会があれば秋の大会もあるという話です。



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春の大会の様子はこちら。


<1回戦>
1Q 6-8
2Q 18-14
3Q 24-26
4Q 35-38



3点差で負け。
一言で言うと「勝てた試合」。
ま、結果負けてるから「負け犬の遠吠え」なんですけど(笑)。


1Q、2Qは悪くなかったです。
1Q。
先制したのはこちらで、いつもの序盤の悪さはあまり感じられず、スムーズに入れたと思います。
相手のディフェンスがマンツーだったので、それなりに人を動かして形は作れていたんじゃないですかね。
相手のセンターが、高さがあるもののそれほどオフェンスが上手くないのも幸いしたかも。
シュートが今ひとつなので6点しかとれなかったのはご愛嬌、みたいな感じだったんですが(笑)。


2Qは押せ押せでした。
1Qからフルメンバーチェンジしてそれが上手く嵌った感じ。
特に決め事をせずにフリーでオフェンスするチームっていうのは、メンバーの相性みたいなのが意外と重要なんですよ。
しかも普段の生活というか話し相手というか、そういう相性とはあまり関係なかったり。
ゲームのなかで「こいつがこう来るならここにパスが来るかも」が瞬時に感じられるというか。
俗に「息が合う」と言うやつなんでしょうね。
ぼくも学生時代に、普段はあんまり話さないんだけど一緒にゲームに出るとパスの出す・受けるのタイミングとかが取りやすい相手、っていましたし。
とにかくそういうのが上手くいった感じ。
ディフェンスもよく頑張って2Qは12-6と。


3Qが今回の勝負の分かれ目でした。
2Qとまたフルでメンバー変えたのが今度は裏目。
特にオフェンスでは今度はまったく「息が合わず」にグダグダ…
それに影響されてディフェンスも崩れる、といった悪循環。
特に途中から出てきた相手の8番に結構引っ掻き回されて、やられちゃいました。
ここでうまくタイムアウトとか交代とかを使えれば、ってもちろん後の祭りですけど。
3Qは6-12。
2Qの仕返しされちゃいました。


4Qはまあ特に語ることもなく。
11-12ですし、お互いあまり足が動いておらず、ディフェンスが悪くてという感じです。


ゲーム全体としては、このところ人数の集まりが悪くて練習があまりできなかったせいか、足の動いてないメンバーが大半。
それから、ゲーム勘がないというか、スピードを上げるべきところで上げられない、落ち着いて攻めるところで早くシュートしてしまう、といった状況判断が上手くできてない感じですね。
この2点、メンバー同士のミスマッチを起こして、とくに後半に影響したように見えました。
勝ちにこだわれば、練習してないメンバーは出さないという選択肢もあるかとは思いますが、まあそこは社会人のサークルみたいなもんですから楽しくやるということを優先する、というところですね。


ま、もうちょっと練習できてれば違ったかも?
でもみんな仕事とか家族サービスあるからねえ(笑)。





あなたがいるから私がいるのだということ。

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元・JUN SKY WALKERSの寺岡呼人氏が、フォークデュオ「ゆず」の「サヨナラバス」のプロデュースについて語っていた言葉を思い出す。

「僕の中の最高のポップスというのは”明るいのに涙が出る”ような曲です。」

「曲は明るいのに歌ってることはとても悲しい内容。」

「これは明るければ明るいほど悲しくなる曲じゃないかと思いました。



15歳でプロ棋士となった主人公・桐山零。

将棋の腕はまさに「天才少年」だが、幼くして家族を事故で失い、父の知り合いの棋士・幸田にあずけられていた。

その家庭はまさに「将棋一家」と呼ぶにふさわしく、彼の才能に嫉妬する義理の姉・弟に囲まれて、多感な少年時代を過ごす。

そして桐山零は川本一家と出会う…



作品全体にある雰囲気が、先の寺岡氏のコメントに近いものがあるような気がします。

家庭に恵まれていない桐山君ですが、川本一家や担任の林田先生、そして同期の二階堂君を始めとする棋士たちに囲まれていて、仲間たちは多いように思います。

しかし、彼が背負うものは仲間たちには背負わせられないものなのです。

兄姉たちが自分のせいで、将棋を諦めざるを得なかった。

いくら才能の違いが見えたとはいえ、可能性を信じる少年少女たちが素直にそんなことを信じるわけもなく。

彼には姉弟の将棋を背負い続けることを定められ、そしてそれは誰にも渡せず、姉弟達と決定的な距離感を作ってしまっているのです。


Chapter38 後ろから2ページ目 あかりさんのモノローグ
「ひとつ屋根の下に十数年…
---なのに
あの時の2人からはほんの少しだって姉弟の匂いなんてして来なかった
そうか 零くん…
---だから
あなたはその家を出たのね」



この背負うものの重さが、この物語を重くそして苦しいものにしているもののひとつでしょう。

しかしながら、この重さを(逆説的に)さらに重くしているのが川本一家、そして林田先生や棋士仲間です。


Chapter12 最終ページ ひなちゃんのモノローグ
「れいちゃんはいつも静かで大人っぽいけれど
でも泣きむしな所もあるから心配なの---だから」



Chapter60 9~10ページ目 桐山君のモノローグ
帰り道 先生は
教師の意地だと言って肉まんをおごってくれた
---そして僕は
「ズレてる」とか「がんこ」だとか
悪口ばかり言われた
そして背中をたたかれた



Chapter14 12ページ目 二階堂君
桐山っっ聞こえているか!?
もっと自分の将棋を---
自分を大切にしてくれっっ
桐山っっ



桐山君は何か自分がすごい孤独なように感じているようなのですが、見る限り全然そんなことはなくて、むしろ世間一般的に見ても、周りの人に恵まれた環境にいると思うのです。

その優しさがその背負ったものの重みひどく感じさせるのです。



今回のエントリのタイトルの話を書こうと思います。

スポーツとか将棋もそうですが、勝敗のあるものっていうのはすごくわかりやすいものがあります。

それはライバル

じゃあライバルってなんなの?と。

解釈は分かれるところだと思いますが、ぼくは「お互いに認知しているもの」だと思います。

勝手にライバルだと思っている、というのもごくまれにありますが、それはライバルだとは思えません。

実力に差があっても、認知されていることが重要だと思うのです。

作中で桐山君のライバル二階堂君。

彼は病気というハンデを背負いつつ指し続けます。

誰にも背負ってもらえないものをもっているという点では、桐山君と一緒で、作中で二階堂君がそれを指摘する場面はありませんが、きっと気づいているのではないでしょうか。

だから「ライバル」だと。

先の「自分を大切にしてくれ」は実は自分に向けたものかもしれません。

そしてChapter63にて新人戦決勝を戦う桐山君の脳内に響く声。

それが誰に向けられたものなのか、背負ったものの重さをともに感じてくれるのは誰か。

桐山君は気づいたのだと思います。

勝った桐山君を、病室でネット中継を観ながら、毒づきつつ祝福する二階堂君は、それまで桐山君が勝ったのを見た時とは違い、素直にライバルの勝利を喜んでいます。



人は自分一人ではいられない、というのは少し大人になればみんなうすうす気づいていることなんですけど、一人暮らしとか始めちゃうと、「うすうす」のまま時を重ねてしまう気がします。

自分が誰かなんて当たり前のことのようにわかっていると思いがちですが、実は違います。

誰かが「あなたは○○さんね」ときづいてくれてこそ、あなたはあなたでいられるのです。

桐山君も家庭の中で、自分が自分と認められなくなっていく中で、二階堂君と出会い、林田先生と出会い、川本一家と出会った。

将棋しかない、と思っていた桐山君を「ライバル」として認めた二階堂君。

将棋の世界では有名ながらも、教師や生徒たちにそれを知られていないがために、また認知されることで姉弟と同じような関係が生まれることを恐れて(本当はそんなことはないのに)いた高校生・桐山君を、棋士であることを認めながら高校生としても認知してくれた林田先生。

そして棋士以外のひとりの高校生・少年として認めてくれ、そして「友達」としても認めてくれた川本一家。

誰もが桐山君を認めることで、桐山君は桐山君足り得ることに、桐山君は気づかされたのです。

ぼくらも同じです。

あなたが相手を認めるからこそ、相手もあなたを認めてくれる。

相手が認めない世界では、自分はいないのと同じです。

「人間は孤独だ」「人間は一人では生きていけない」両方とも真理かと思いますが、どうも言葉が上滑りしているような気が・・・



悟りでもなく、依存でもなく。

ぼくはあなたをあなたと認めるよ、だからぼくを認めてくれよ。

ただ認知するだけでよい。

(もちろんその先踏み込むこともあると思います)

「ライバル」も「友達」も呼び名が違うだけで一緒なのです。

常に相手を認め、認めてもらうように努力すること。

そんな関係をいつも作っていきたいものだと思います。


あ、あとひとつだけ。

個人的には一巻で出てきた、あかりさんのドレス姿をまた見たいわけですが(笑)、はたして再登場はあるのでしょうか・・・ぜひ期待!












僕らはすでに魔法にかかっている。

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樋口有介「柚木シリーズ」の第一作です。

38歳の元刑事のルポライター「柚木草平」が、次から次へと登場する美女に翻弄されながら、副業のような探偵をこなすコメディとハードボイルドを足して2で割ったような(?)小説。

樋口有介を知ったのは、以前のエントリのこの本の、解説を書いていたから。

その内容がなかなかおもしろかったのでした。




さて「彼女はたぶん魔法を使う」です。

交通事故で死んだ大学生の妹は「殺された」という広告外車で働く姉からの依頼。

別居している妻、娘に「わかったわかった」と言いながら、謎解きを進めていく柚木。

殺されたかどうかは比較的すんなり判明したものの、謎解きの中で美女たちとの関係性が変わっていって・・・

というようなあらすじですかね。

物語はすべて柚木の一人称で語られているので、最後まで女性たちの真意がわからずやきもきするところが、読みどころかと。



P95 「・・・俺は、人間一人が負いきれる責任の量に、限界があると気がついただけだ」


「責任を負う」ってどういうことなんでしょうね。

実際の上下関係でも、「俺が責任をとる」って言われても「じゃあどうやって?」というのがいつも気になってしまいます。

仕事なら、まあ言っておけばいいだろ的なところもあったりしますが(笑)、たとえば親として子どもに対する責任はどうでしょうか。

子どもの人生に責任を持つなんてことができる親は、一人もいないと思うんですよ。

どうやったって親と子どもは別人だし、子どもには子どもの人生があって、それがどう転ぶかなんて子ども自身にもわからないのに、「責任を負う」なんてことは不可能かと。

もし本当に責任を負っていると思っている人がいたら、それは親の自己満足かエゴイズムでしかないかと。

親にできることなんて、せいぜい子どもが成人する前に死なない、ぐらいかなと。

そういうことがわかっているからこそ、柚木も娘の加奈子に対して心配しつつも、彼女の意思を尊重するように動いているのかもしれないと思うところです。



P99 ”冴子の屈託も理解できるし、俺自身の憂鬱も理解していたが、人生には理解しただけでは意味のないことなんて、いくらでもある。”


なんというか、人間、生きてるだけでもいろいろな問題が起きてくるわけで。

それを問題と思うかそうは思わないかは人によるのですが。

ただ、どういう問題か理解しているかどうか、というのはある程度共通する部分かと思いますが、いかんせん、いくら精密に理解していたところで、なんの解決にもならない(できない)ことはいっぱいあるのですね。

そこが人生の面白さと思うか、辛さと思うか、楽しさと思うか、哀しさと思うか・・・それも人によって異なって、それによって不幸だったり幸せだったり。

自分の考え方で、幸せになったり不幸になったりするんだから、人間って不毛な生き物ですね(笑)。



P129 ”洗濯さえなければ時間はもっと有効に使えるはずだが、本当を言うと俺は、時間なんてまるで有効に使いたいとは思っていないのだ。”


これは面白いセリフですね。

時間が大切、というのがなぜかというのは、人間はいつか必ず老いて死ぬ、という前提だからですよね。

不老不死ならいつまでも生き続けるのだから、時間なんか大切にする必要もないわけで。

「大切にする」にすることと「有効に使う」ことが同義だとすれば、大切にする気がない、と言っているのと同じ子だから、ある意味死を恐れていない、というかいつ死んでもいい、というか。

おそらく後者だと思うのは、柚木にある種の達観のようなものを感じるからだろうか。



P141 ”人間はそれぞれ、自分の美意識の中でできるかぎりきれいに生きたいと思うものだ。”


まあそう思っててもなかなかうまくいかないというところを書いているわけですけど。

一般的に「優秀」な人間ほど、こういった要素を強く持っている気がします。

ただ、それがうまくいかなかったときに、それを潔く捨てられるかどうかが勝負の分かれ目というか。

言い換えれば「プライド」をターンに応じて捨てられるかどうか、というところで違いがあるのかな、と。



P165 「女の子の買い物は、男にとっては社会問題だ」「女の子って、買い物に人生を賭けてるところがあります。」

いや、たしかに実感としてはそうなんですけど。

じゃ、なんでそういうものなのか、っていうのがわからないんですよね。

たかだか1枚のシャツを買うのに、どうしてそんなに悩めるのか、と。

しかも、たくさん持っているものを(笑)。

欲しいものがなくて、探して歩き回るのはいいんですけど、何が欲しいかわからないけど、いいものがあったら買いたいから歩き回って、いくつかの候補から悩んで、でも買わないって・・・キー!!って感じ。

ま、そういうことで「男にとっては社会問題」ですし、そのために生きてるのであれば「人生賭けてる」のも納得はするんですけど、振り回されるのは納得いかないわけでして・・・



P182 「・・・打ち明けられない問題が一つか二つしかない友達だったことのほうが、意味があると思う・・・」


若い人ほどこういう傾向が強いと思う。

なんでも打ち明けられるのが親友だなんて、どれだけ人間舐めてんのかと(笑)。

腹を割って話せるのって本当に親友なんだろうか。

それは本当は聴きたくないことを聞かせているという、相手に負担をかけているだけなんじゃないだろうか。

そもそも腹を割って話すなんてことが本当に必要なんだろうか。

人は他者をもって自分を認知するとはよく言われる話です。

相手のことが想像できない人は、自分がどんなふうに思われているかも想像できない。

きっと君が腹を割って話せる親友だ、と思っている相手は、意外と君のことを親友と思っていない、と思うよ。



P237 ”人生はこんなものだとは思いながら、こんなものであることに意味もなく腹が立つこともある。”


そうなんだよなあ。

自分が変わればなんでも出来るだろ、頑張るぞ!なんて思っている一方で、変わったところで現実的にできることは限られてる、と冷静に頭を働かせている自分もいる。

なかなかうまくいかないのも人生で、なぜかトントン拍子にうまくいってしまうことがあるのも人生で。

人生ってなんだろうね。

「人生」というカテゴリーでくくってしまっているのが間違いなのかな。

とはいえ、どんな生き方でも人生は人生だし、だからこそ腹が立つようなときもあって。

生きてる限りこの矛盾(?)を抱え続けるしかないのかなあと思うと、泣きたいような腹が立つような。(あれ?)



P252 ”なにもかも、これは夏原祐子が天気にかけた、あの魔法のせいだ。”


夏原祐子というのは、殺された妹と付き合いが深かった20歳の大学生の友人です。

前の「女の子って、買い物に・・・」の発言も彼女です。

なんというか、このへんが「柚木らしさ」なのかなーと。

一作しか読んでないくせにおこがましいにもほどがある!と言われるとまあそうなんですけど。

「彼女のせいだ」ではなく、「魔法のせいだ」という。

「祈り」の重たいイメージと対照的に、「魔法」には軽やかなイメージもある。

かるーく、えいっ!ってかけた魔法でじめっという暑さに苦しめられたとしても、彼女を恨むのではなく、彼女がかけた魔法を恨む、と。

憎むのではなく、恨むのがミソ。

うらめしいだけで、彼女も魔法も良くはないけど悪くもない、というニュアンスがこの言葉だけで伝わってくるような。

秀逸です。



そして最後にもこの夏原祐子がからんでくるのですが。

38歳と20歳の年の差でしょうか。

かみ合わないのか遠まわしなのか。

最後のシーンは思わず笑い出して読んでしまいました。

タイトルの意味はおそらく二重にかかっているのでしょう。

そういう意味では、まるでこのシーンを読むために、ここまでの謎解きやらなんやらいろいろな事件があったんじゃないかと思わせるところですね。

作者もこれが最も書きたかったんじゃないかと。

「借金取りとか、そういうのでは、ないと思う」

ってこの、うしろの読点の打ち方が、またニヤリとさせるんだよなあ。



というわけで、柚木シリーズ第二弾「初恋よ、さよならのキスをしよう」を購入してしまいました。

きっとぼくは、樋口有介の「魔法」にかかってしまったのかもしれない。

なんてね(笑)。








~講談社文庫 「彼女はたぶん魔法を使う」 樋口有介~



営業という職種への誤解。

もうすでに営業マンではないぼくがこんなことを書いていいのかわかりませんが。

どうやら巷では大学3年生の就職活動が始まっているらしいです。

大変ですね。

こういうご時世なんで、「営業は嫌だ」なんていっても選べるもんでもないのでしょうね。

一時は営業職に就くやつは見下されて「ソルジャー」なんて呼ばれたりしたそうです。

そんな感じで学生を初めとする営業未経験の人にはいろいろ誤解がありそうなのですが、別にぼくは教授でも就職課の職員でもないので、特に学生のためでもなく、とりあえず自分の思考の整理のためだけに書いてみようかというところで、キーボードを叩いています。

こうすれば売れる!みたいな話は、ブックオフにでも行けば105円で山ほど売ってる営業本のなかにいくらでも書いてありますから、それを読んでみたほうがこんなショボイブログより有益です(笑)。

ではでは、営業ってどんなもん?みたいな話を書いてみようと思います。



1.営業は売るのが仕事だ。

営業やったことない大半の人は、営業は売る人だと思っているのではないでしょうかね。

家のチャイムが鳴って「○○ホームです」とか「××保険です」とか来ると、大抵はうんざりするような売り込みでしょうからそう思うのも無理ないんですけど。

ま、買う方からしたらそんな営業から買いたくないという気持ちはよくわかります。

だからそういう営業は結局売れないんですけど・・・。

「売る」ことを考えちゃうと売れないんですよ。

ん?売るんじゃないんなら、営業ってなんなの?

端的にいえば、営業の仕事というのは「買いたいと思っている人を探すこと」です。

お礼状だの、交渉術だの「営業テクニック」と呼ばれるものは数知れずありますが、買いたいと思っている人に買いたいモノを売るだけなら、そんなテクニックはひとつとして必要ありません。

そういうのはみんな「買いたい人を効率よく探すための方法」であって「目的」ではないということです。

つまり買いたい人を探す、というのが営業活動の目的なのです。

買いたい人に買いたいものを差し出して、適正な価格(ピンポイントな値段ではなく、ボッタクリでないという意味)を示せばまず間違いなく買ってくれます。

「高い」って言われたら、値下げすればいいだけの話です。

「そんな安く売ったら、利益がなくなっちゃうよ」というのはその商品の価値がそれぐらいしかないってことですから仕方ありません。

利益がでるかどうかはむしろ商品力の問題が大きいので、また別の話です。

すごい営業はそこらへんに落ちてる石でも売ってしまう、みたいな伝説の営業マンのたとえ話がありますけど。

伝説とは程遠いぼくでも、未経験のあなたでも「売る」ことはできます。

その石を「買いたい人」を見つけられればね。



2.営業には才能が必要だ。

こう思っているひともなかなか結構いますね。

「あいつは営業に向いてない」とかね。

まあ、たしかに向き不向きはありますし、ごくまれにスーパー営業っていう人はいて、そういう人は凡人にはマネできないエネルギーがあって、どうやっても買わないだろって人にも売ってきちゃったりするんですけど。

それは例外。

物事には例外がつきものですよ。

だけど、わけわからんノルマを与えられるような会社や、自分がそういうのを必要としててもこの会社の商品は買わない、というようなブラックな会社にいるのではなく、一般的なフツーの会社にいて自分の予算を達成するぐらいの営業なら才能なんかちっとも必要ないです。

しいていえば「人当たりの良さ」というか「人から話しかけやすい人と思われてる」なんかがあると有利かも。

あ、でも「努力する才能」は必要か。

けどそんなのどんな仕事でも必要なことだしね。

営業だけ特に必要なスキルじゃないよね。

というわけで、手順ややり方が間違ってなければ、誰でも売ることが出来るのが営業です。

売上が上がらず苦しんでいる人は概ねやり方が間違っていたり、やることが足りなかったりします。

最初に書いたように、手順というかやり方についてはそこらへんの営業本を読めばいくらでも書いてあります。

それをやりきれるかどうかってとこが勝負の(?)分かれ目。

決まってることをやるだけなんだから、ある程度誰でもできるということです。



3.「とにかく回れ」は古い営業だ。

まーたしかに古いですよ。

少なくともぼくが営業になった10年前からある言葉ですから。

でも、今でも大半の営業コンサルは「訪問件数」を重んじますよ。

なぜなんでしょうね。

サッカーに例えてみましょうか。

サッカーというスポーツにおいて、その試合中の目的は「相手ゴールにボールを入れること」なわけですが、ボールのスピードとかゴールのどこに入れるとか、ルール内であれば全く自由なことになっています。

ただし、当然ディフェンスがいてゴールキーパーがいるので、いろんな工夫をしなければ入りません。

がむしゃらに思いっきりシュートを打つだけでなく、ふわっと浮かせてみたり、端ギリギリを狙ってみたり。

だけどサッカー始めたばかりの人が、ふわっと浮かせるシュートとか、端ギリギリを狙うシュートとか、まずできないです。

できたらそれこそ天才ですね。

普通の人は毎日いっぱい練習して、ようやく試合でできるかも、というところです。

・・・もうおわかりだと思います。

営業にも「練習」が必要なんですね。

ロールプレイングとかも結構ですが、どうせなら本番で練習しちゃったほうがいいですよ。

売れなくても大概何も失うものはありません(まあ時間と交通費ぐらいは失いますけど)。

でも社内で同僚相手にロールプレイングやってたって時間を失うのは同じようなもんですから、どうせなら訪問してお客さんを相手に練習するほうが同僚よりずっと緊張感もありますし、上達も早いでしょうね。

たくさん練習するには、たくさんのお客さんと会う。

つまり練習量=訪問件数なのです。

いっぱい訪問した人が、いっぱい練習できて、上手くなって、売れるようになる、というのは別になんてことない当たり前のことです。

ついでに言うと、1のところで書いた「買いたい人を探す」作業にも有効です。

たくさんの人に会えたら、「買いたい人」に会える確率も上がりますから。



そんなところです。

「営業テクニック」なんていうと、すごい特殊なスキルが必要なのかとおもいきや、ほとんどは作業です。

何も考えなくても、とにかく書いてある通りにやれれば、一定の成果は出ます。

「案ずるより産むが易し」ですね。

ダメだったらほかの方法を試せばいいし、ここには訪問件数が大切だみたいな話を書きましたが、そんなことをしなくても売れるなら、ゼロ件でもまったく問題ありません。

営業本を読む必要もないし。

うーむ、そうでもないなという人は・・・営業本を10冊も読めばだいたいわかりますよ(笑)。



まぁ、ほかにも誤解があると思いますが、こんなところで。

営業はやったことないから不安だ、という人の心が少しでも晴れれば書いた甲斐もあるものです。

よければこちらのエントリなんかもどうぞ。






動画編集ってなかなかおもしろいね。

最近会社で、AppleのiPadが販促用のツールとして導入されたんですが。

それで、ちょっとした商品カタログの専用アプリみたいなのを作った後、それだけじゃさすがにもったいないから、ほかにもなんか使おうぜ!みたいな話になるわけで。

営業マンその他からいくらかアイデアを募った結果、その中のひとつに工場とか生産ラインの動画を作って、得意先に生産の理解を深めてもらおうじゃないか、というのがあったので、リソースもコストもそんなに必要なさそうだし、ってことでそれになりまして。

まあ自分の部署でいろいろとやっています。

とはいえ所詮映像のプロでもなんでもない素人ですから、撮影もビデオカメラじゃなくてコンデジの動画機能だし、編集もWindowsに最初っから入ってる、ムービーメーカーを使うので、たいしたものはできないんですけど(笑)。

もちろん映像は美しいほうがいいにきまってますけど、目的は生産の理解ですから、それが果たされるのに美しさとかあんまり関係ないですし、余計なコストもね、どうかということで。



というわけで、ほかの仕事の傍ら、ちまちまとそんなことをやっていたのですが、だいぶムービーメーカーとやらの使い方にも慣れてきたので、ちょっくらプライベートな映像もいじってみました。






息子がミニSLを追いかける様子です(笑)。

なんでこれにしたかというと、ほかに編集の意味のありそうな動画がなかったので・・・



動画の長さとイントロの長さがほぼ同じというところがすごい偶然で笑っちゃいます。

見所は最後の立ち去るシーンですかねぇ(笑)






こういうのも親バカなんかな・・・





(BGMが著作権的にアレですが、個人利用ということで見逃していただければと・・・)

より楽チンに生きたいなら「検索力」は身につけたい。


先日雑誌を読んでたら、シイタケの軸は食べられるのか?って話題が書いてあって、ちなみにここで軸と書いてあるのは「いしづき」のことなんだけど、普通はいしづきは食べないんですよ。

つまり軸は食べない、のが正解(?)。

で、じゃあどこからどこまでがいしづきなんだよ?って話もあるんだけど、それはちょっと置いといて、気になったのはいしづきを知らないのは料理をしないからだな、みたいなことが書いてあったこと。

確かにぼくもいしづきがどこからどこまでか?なんて知識はないけど、料理はする(最近はたまにだけど)。

今度は何をもって料理とするか?ってのはあるけどね。

ちなみによく作るのは煮物です(笑)。

さらに、そのしいたけを、「炒める」と言わずに「焼く」というのも同じ理由(料理をしないからそういう言葉の使い方をする、という意味だと思う)と書いてある。

ん?この人は焼き肉を炒め肉というんだろうか?

別に、揚げ足をとるつもりはなくて、言いたいのは、そもそも対象について深く知らなくてもできたりしたりすることって実は結構あるでしょ?って話。

簡単なとこからだと、テレビが何で映るのか?ってたぶん電気屋にも知らない人いるかもしれないってぐらいマニアックな知識だと思う。

だけど、そんな知識なくたって、みんなちゃんとテレビを観る事ができる。

会社に入ったばかりの新人営業マンだって、その会社で扱っている商品のことをよく知らなくても、よっぽどでなきゃ全く売れないってことはない。

そりゃもちろん優秀なベテラン営業マンと比較したら、クォリティは低いのが当たり前だろうけど、それでもできない、ということはない。

要するに、大事なのは知識じゃなくて、知らないことがでてきたら、調べたり人に訊いたりして知ろうとすることじゃないかな、と。


テレビにしても、仕組みなどの知識を持ってると、故障したときにどうしてこうなってるのか?について、ある程度原因を絞り込める。

その結果、自分でできるメンテナンスもあるだろうし、修理に出すにしてもこういう症状だという説明がわかりやすくなる。

営業マンの話で言えば、仕事を受けるたび、その仕事がどうやって流れていくのか?を自分の目で見る(つまり自分の知識を検証する)ことで知識が肉付けされていって、その知識を生かした言葉に説得力が含まれる。

そうそう、今でも首都圏の電車の大半が震災前の時刻表通りには動いてないんだけど、鉄道会社もいつになったら通常の時刻表通り動かせるのか?という時期が現状全くわからないから、いわゆるポケット時刻表なんか作ってないことが多い。

今はあくまで臨時ダイヤですよ~ということで。

なので、その臨時ダイヤの時刻表は(書き直したり修正したりが簡単な)WEBサイトにあります、ということになってる。

で、このポケット時刻表が無い状況から、顧客の考えられる反応として、WEBサイトを見れない客はどーすんの?というクレーム(?)。

感覚的に考えれば、お年寄りに多いと思うけどね。

けど、今は新聞とってない家庭だってたくさんあるわけだし、パソコン持ってなくても、市役所だの図書館だのに行けば使えるし、インターネットカフェだってある。

新聞だってタダじゃないんだから、インターネットだってタダじゃないし。

利用者全員に通知しろって話なら、逆に利用者登録とかしないいけないし。

そしたらまたプライバシーや個人情報云々で騒ぐんでしょうね。

そもそも月一回ぐらいしか乗らないような環境だったとしたら、登録なんてするの乗る側としてもめんどくさいでしょう。

ちょっと調べようとする意欲さえあれば、簡単な話。

そもそも時刻を知らなくても、よっぽど田舎でなけりゃ1時間も待てば電車がくるわけだし、さっきの話にしても、いしづきがどこかなんて、ちょっと調べればわかるけど、知らないと料理ができないってわけでもない。

終電いったあとも待つのか?って反論するなら、そんな時間に乗ろうとするならそれこそどうにかして調べとけよ、という話で。

興味や必要性があれば、調べるし覚えるけど、生死に結びつくようなものはよっぽどのことが無い限りまずありえない。

ただ調べる力があるほうがよりかんたんに楽に生きられるんじゃないの?

と、いつもどおり(笑)とりとめのない話でした。

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ホットケーキを炊飯器で作ってみた。

火はきちんと通るけど、まわりが蒸気で湿っぽくなってしまうのが残念。

サクッフワッ、には難しいね。

«きかんしゃトリップ。

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